地域で活躍する会社から学ぶ -好成績・好業績の秘訣- 第6回

磯部建設株式会社(栃木県)代表取締役社長 磯部尚士氏
代表取締役社長 磯部尚士氏

磯部建設株式会社(栃木県)

表彰は前社長から引き継いだ努力の結果
苦難の時代からの転換

好成績・好業績の秘訣シリーズ3社目となる第6回は、栃木県日光市(旧今市市)に本社を置き、数多くの表彰を受賞している 磯部建設株式会社の磯部尚士社長に、表彰の背景について伺った。

元々は経理財務が専門

─── 社長になられた経緯からお話頂けますでしょうか?

磯部社長

私が社長になったのは去年の7月で、長兄である前社長の突然の死でバトンタッチになりました。

ずっとこの業界に身を寄せて関わり始めて35年目。 長兄は元々建築屋でしたが、私は経理財務を専門としていました。 学卒後、準大手会社の北陸支店(新潟市)に5年間、支店経理や現場事務の経験を積んで郷里へ戻り、 その後、2年間は宇都宮の会計事務所にいて、手元で電卓をたたきながら総勘定元帳とか仕訳帳とか、 古典的な手作業の処理、会計事務・税務申告事務をしていました。 ずっとバックヤードにいましたので、官庁の営業など、最前線に躍り出てお客様と対峙して、 他社と対峙してどうのこうのという場面には一切関わりもせず、 多少お客様の紹介や縁をえて動きながら民間営業に繋ぐということは多少かじりましたが、ひたすら銀行筋中心の仕事でした。

前社長の苦労

─── 前社長との思い出や、突然、引き継がれたときのご苦労などについてお聞かせください。

磯部社長

私が社長になっても、前社長がやっていたときでも現実にやっていることには差はないと思いますね。 私が社長になったからといって目新しいことをやった覚えはひとつもありません。 ある種、私は楽というか、言い換えれば前社長は、花が開いた実績というその果実を摘み取るという部分はまだ少ない時期で、 いちばん苦労はしたと思うのですが、ある種恵まれなかったと思います。 相対的に見たら当社よりもっと高みに居る会社が数社おって、 そのもとで当社が思うような入札結果が出なかったというのがあったのではないかと思うのですよ。 それくらいここ3・4年もう激烈な競争、荒れ狂ってきましたので、もう何をやっていいかわからない時期というのは一時ありました。 特に4年前とかっていうのは。もうある種やりつくした感もありながら、 結果が出ないばっかりに自分がやっていることに対して正しいという感覚が持てずに、 寝ても覚めても不安がつきまとって、ある種コンプレックスを感じていたようです。 こないだまでは優位にいたのに今置かれた状態を直視・目の当たりにすれば決していい位置にいない。 後塵を拝しているという状況でした。 前社長そのものが、良くも悪くも割合プライドの高い性格の人でしたから一生懸命でもありましたよ。 実の弟の私が言うと贔屓目に映りますけど、私が見ましても長兄・前社長そのものが優秀な人だと肌身もって感じていました。 多少神経質のところがありましたが・・・。

今は結果として、私が社長となって今表彰を受けておりますが、これは前社長が5年や10年長きに渡って人知れず苦労したものであり、 たまたま私が社長になったタイミングでこうなっただけのことで、これは前社長の代理をして(賞を)頂いているだけに過ぎないのです。 私は賞を頂くたびに前社長の仏壇に持っていきましたけど、 持っていくと前社長のメモに「国交省の受注」っていう祈願が書いてあるのですから、汚い字で。 国交省の仕事がほしいと。書いてから亡くなって、丁度一週間経ったら受注しましたよ。去年の7月のあたまに。 知っていたはずなのですよ、本人は薄々と。

そういう意味では、わたしは何にも知らないうちにベルトコンベアかエスカレーターに乗って、 着いた途端、手のひらにポンポンと表彰状から何からね。 本当に申し訳ないと思った。申し訳ないと思ったから、わたしが社長になるときからは 月いっぺんの会議でも年度の会議でもことあるごとに前社長の場所へ行くのだと思って。

二十数年間一緒に色んな話をしましたが、どちらかというと前社長は褒めるのが下手でね、 怒ってばかりいるのですよ、年がら年中。わたしも褒められたことは一回もない。怒られたことは本当に多かったけど。 わたしにいちばん怒りやすいわけですよ、誰よりもね。実の弟ですから。 そういう意味では、怒られた記憶しかありません代わりに、やっぱり怒られなきゃいけないような背景、 会社として今こういうような課題があるということに対する切迫感は他の社員や役員よりもありましたよ。 結果としては貴重な体験、社長につぐ体験を私はそれなりにさせてもらったと思っています。 だから昨年、あの7月の時点でとりあえず主な一員ですから、わたしが辞めるといったら会社が潰れちゃうわけですよ。 何が何でも潰すわけにはいかない。100人の社員、家族ひっくるめれば400人とか500人、 協力業者含めれば1,000人とか2,000人とかなってくるときに、これは潰すわけにはいかないと。 「磯部っていう名前がついている以上、私は社長をやるけれども、技術のことはわからないので皆さんの協力をもらわなきゃ出来ない。 そのかわり皆さんの働く環境についてきちんと公平・平等に報いることが出来るようにすることが わたしの役目だと思って頑張ってやりますわ」と言って社長になってこの一年があるのですよ。だから私はまだ気が楽です。

工事成績のアップは永遠の課題

磯部尚士氏

─── ここ数年の入札制度の変化に対して感じていることなどはありますか?

磯部社長

親父の代からでは昭和25年会社設立以来、今市市に本社がありながらも早くから建設省で工事実績をあげながら、 地元はもとより県下の渡良瀬河川から宇都宮国道事務所から利根川上流河川事務所まで幅広く、 栃木県のフィールドに固執することなく出入りをさせて頂きました。 工事実績が積み上がる分、年間を通じて仕事も実績も切らすことなくやってこれました。

しかし総合評価が最近は定着してきました。栃木県発注工事の総合評価は価格のみによらないことが多いと感じます。 どうしても積算能力が以前より必要ですし、「この工事はとりたい!ここは絶対わが社に!」を手堅いものにするためには、 価格もさることながら価格以前の、やはり付け刃のきかない工事実績・評定点のアップが重要です。 また国交省と同じように、技術者個人の工事実績の部分と、会社自体の工事実績というもの両方が問われています。 これはもう一朝一夕には出来ない話です。 そうすると、これは永遠の課題となり、官工事の仕事をしていくうえで避けて通れない訳です。 今迄は指名競争まではわが社が周囲ではトップランナーで、競合他社が50~100m位は後ろにいるなと感じていました。 しかし制度が変わった途端、下手すれば競合他社の背中かおしりを眺めながら、 ほこりを被りながら追走する立場に落ちたという感じを受けました。

数度の火事と裁判

磯部社長

それと実は平成20年にこの事務所が火事になったのですよ、平成20年の7月29日ですが。 そしてその前、平成20年の4月の終わり頃、うちの生コン工場のバッチャープラント脇の事務所が火災で焼失しました。 更に一昨年ですかね、更にもう1度、黒部の生コン工場の試験室が焼失しましてね。 そのときはさすがに言われましたよ、業績も振るわない中でね、銀行の支店長からね、 「一人の人間が一生のうちに火事に遭遇するっていう経験できる確率っていうのは、1件もないですよ。 ゼロコンマ幾つの世界であって、それが磯部さんは複数ですよね?」と。 たまたまその頃の業績が3期4期連続して赤字で、そこに火災でしょ。 知らない人が見たら何か旗色が悪いっていうかね、保険金でも騙し取るみたいな感覚になるじゃないですか。本当に間が悪い。 地元の警察署の現場検証や科学警察みたいな人も来て、結局、差しっぱなしのコンセントに溜まった埃が燃えたようなんです。 全焼。全焼ですよ。いやもうね、そのときは最悪でしたね。でも、「これが総務経理の方でよかったんだ。 営業本部がある向こうの棟でこれと同じように全焼になんてなっていたら会社自体続行は難しかったかもしれない。 当然ながらお客様に渡した物件の設計図書から何からね、記録っていうものが全部消失しちゃったら、 明日からの入札から営業の進め方からという部分で、どこから手を付けていいか、何の記録もない。 そういう意味ではね、申し訳ないけど経理でよかったわ。」と前社長からしみじみ言われました。 もっとも、事務方の責任者の私にしたら地獄でしたけどね。

─── 大変なご苦労をされたのですね。

磯部社長

それとね、平成20年は裁判を5年も6年もやってきた裁判が、最後和解に応じて敗戦となったのです。 和解金は2億5000万か2億7000万ぐらいね、宇都宮のテナントビル新築工事におけるある種欠陥工事を指摘されて、 欠陥工事じゃなかったのですよ?別にこれだけの地震が起きても傾いたわけでもなんでもないのですが、 元はと言えば、うちは逆にお施主さんに対して売掛金請求訴訟をこの地元の宇都宮地方裁判所で起こして勝訴して、 そしたら相手方が東京高裁に持っていって。 東京高裁で、施主の方がうちの売掛金請求訴訟そのものは紛れもない事実にもかかわらず、彼らは逆にうちのあら探しですよ。 「だいたいどのビルを見たって、叩けば埃が出ないなんてものは一つもないのだよ」と取り巻きの建築士は豪語してました。

引き渡し時には、設計(監理)事務所がきちんと合格って言って、施主も引き渡しのところできちんと合格サインしているのですよ。 にもかかわらずオーナーがそれを拒否するのは、丁度バブルがはじけちゃったからなのです。 バブル中に銀行が資金をつけてくれて新築したビルの工事案件が、引き渡した時点ではバブルが丁度はじけていたということなのです。 構造的に何か欠陥があって、これは壊さなければ地震に耐えられないっていう意味での欠陥ではなくて、美観上、 角のところが通ってなかったらしいのですよ。そのことでケチが付け始まって、揉めている間に姉歯問題ですよ。 その結果これは建て替えなさい、全部壊して建て替えてもらいなさい。建て替えてもらうことができないのならお金で弁済しなさいと。 3億6000万も4億もね。元通りに直すためのお金払えって、そんなもんとてもじゃない。 それは補強すれば十分間に合うとか、材料を入れ替えるとか、正しく材料を取り付け直せば十分元に戻ると言っているにもかかわらず、 そういったものをぶつけていっても、最後は裁判所お抱えの一級建築士と相手の一級建築士でもってね、こんなの無理ですよ。 建て替えてもらった方が早いですよと。それを真に受けちゃったわけですよ。女性裁判官が。

読売新聞の地元社会欄にも載って、対外信用上、既存のお客様や潜在的なお客様にしてみれば、 「磯部にもそろそろ見積もりのチャンスを与えてやろうかと思っていたけど、火のないところに煙は立たないっていうから、 こういう記事見ちゃうと何となく気持ちが悪い。だから声をかけるのはやめとこう」というのが実はあったかもしれない。 そうこうしているうちに調停ですよ。和解に向けてどこかで0:100じゃなくてどっかで折り合いをつけましょうと。 前社長はもちろん体張ってやっていましたが、このことでかなり疲れたのですね。 これがなくなればもっと前向きに他の民間ビジネスの世界に更に時間とエネルギーを費やして受注出来るチャンスを作ろうと。 そんなことで和解に応じたのが平成20年の7月の中ごろですよ。社長は私に話さなかったですけど火事が起きたころかな。 2億3千万なり2億5千万円なりのコストを特別損失などで表記して処理しなければならないと。 金は戻ってこないどころか、その分は銀行に借金を負ったまんまなんだと。これはこれで返さないかんと。 2重でですよ。火事に遭うわ、裁判で負けるわ、前社長にしてみれば八方ふさがりっていうかね、何をやっていいかわからない。 その間一生懸命ありとあらゆる可能性のある事に手を染めてはいましたけど、平成20年21年っていうのはまだ芽が出なかったですね。

─── しかし、その後、社員皆さんのお力で挽回され、今の好成績・好業績に結びついていると思いますが、何が会社を変えたのか教えていただけますか?

磯部社長

やっぱり、会社が元気良くなる、社長以下みんなが元気よくなるのはやっぱり黒字だね。 黒字を続けるっていうことは如何に良いエネルギーかっていうのはすこぶる感じました。これ以外のエネルギーはないね・・・(続く)

取材後記

今回は関東地方整備局・栃木県などから連続して表彰を受けるなど、栃木県内で長年トップクラスの実績を上げ続ける磯部建設(株)にインタビューさせて頂きました。

現在の優れた状況からは想像もつきませんが、磯部社長から数年前に起きた困難な出来事や、社員・お兄さんに対する思いなど5時間に亘り語って頂きました。 建設業界におけるゴーイングコンサーンの見本とも言うべき経営の秘訣について、社長へのインタビュー型式で3編を予定しているほか、 土木・安全・建築の各部門長、現場担当者にお聞きした施工管理の秘訣編を続けてお届けする予定です。

次号では、会社の最悪期をどの様に乗り越えたかについて、引き続き磯部社長にお話し頂きます。どうぞ、お楽しみに。

(取材・まとめ ワイズ)

磯部建設株式会社

磯部建設株式会社

(いそべけんせつ)

栃木県日光市に本社を置く総合建設会社。昭和25年創立の栃木県内大手企業のひとつ。

栃木県日光市今市1525番地
代表取締役社長 磯部尚士